医療現場の行動経済学 Behavioral economics in medical practice
第69回関西支部学術集会「安心・安全な医療提供のために」の大会会長として,平井啓先生に特別講演「医療現場の行動経済学 Behavioral economics in medical practice」をご依頼させていただきました.この機会に,平井先生のご著書: 「医療現場の行動経済学」すれ違う医者と患者 大竹文雄・平井啓[編著],について,もう一度精読いたし,麻酔科医としての視点で行動経済学的なアプローチと麻酔診療について,以下のように考えてみました.
本書では,我々医療従事者にとっても,行動科学や行動経済学が,どのような状況でどのように医療と関わりを持つかについて,3部構成で具体例を挙げながら解りやすく学べます。第1部「医療行動経済学とは」では,行動経済学の枠組みや,医療への行動経済学の応用について概説され,第2部「患者と家族の意思決定」では,がん治療での患者・家族への意思決定支援や,がん検診や予防接種,終末期医療の治療選択,高齢者への意思決定支援,臓器提供の意思表示などの例を挙げて,行動経済学的アプローチを説明され,第3部「医療者の意思決定」では,生命維持の差し控えや中止,心肺蘇生の適応,医師の診療行動や看護師のプロフェッショナリズムが関わる行動改善へのアプローチについて述べられています.
本書によって,乳がん検診の受診率や,HPVワクチンの接種控えと将来の子宮頸がん発症の問題などの社会課題に対する行動経済学的な視点を知ることができました.次に,公益社団法人日本麻酔科学会の会員たる麻酔科医が集中治療や緩和医療の現場において,より身近に関わる心肺蘇生が関わるDo Not Attempt Resuscitation (DNAR)や緩和ケアでのアドバンス・ケア・プラニングが関わる事前指示(Advance Directive)などにおいて,行動科学な分析が重要であることを学ぶことができます.そして,医療従事者は,自身や患者の意思決定パターンを把握して,行動変容を促す「ナッジ」に代表される行動経済学的アプローチを実践することで,より良い結果や人間関係に結びつけることができることについて学習しました.
「患者と家族の意思決定」が関与する麻酔科の診療業務として,麻酔のインフォームドコンセント取得のプロセスが挙げられます.麻酔科医は,手術前に患者・家族に提供する麻酔方法や,患者の持つ術前リスク,更に手術に関わるリスクや,術後の疼痛管理などについて,患者と家族に説明をして同意書に署名を得ます.一般的にはこの麻酔のインフォームドコンセントのプロセスが外科医が手術のために行うインフォームドコンセントと大きく異なる点は,無麻酔で手術を受けることが不可能であることから,手術に同意した場合,原則,麻酔に同意しないということはありえないと言えます.従って,麻酔や麻酔管理について説明して理解を得ることに加えて,麻酔が関わる偶発症や合併症についても説明して,万が一の事態にも患者・家族の理解が少しでも得られるように備える役割を持っているのでしょう.外科的侵襲行為による痛みや恐怖を緩和し,手術が安全に行えるように麻酔科医は麻酔という医療行為を行いますが,その行為そのものにも意識消失を誘導し,人工呼吸を行なったり,神経ブロックを行なったり,動脈穿刺などの侵襲的な医療行為を含んでいます.それらは必要であるために行うので,ほぼデフォルト設定によるオプトアウトできることすら少ないものですが,侵襲性が伴う以上,そのことについて事前に説明義務を果たして,施行に同意を得るという手続きと理解しています.ただし,手術によっては,全身麻酔か,それとも脊髄くも膜下麻酔(いわゆる下半身麻酔)の選択かとか,硬膜外麻酔などの区域麻酔を全身麻酔に併用してよいかなど、麻酔法とそのオプションについて患者の意向を問う場合があります.特に開腹手術等で,全身麻酔と併用して,術中及び術後疼痛管理に用いる硬膜外カテーテル留置術による持続硬膜外麻酔の併用については,禁忌となる血液止血・凝固異常等が患者に無い限りにおいて,術後の創部痛を抑えて早期離床・回復を促すことにつながる上で,原則,推奨されます.ただし,稀なる合併症として,穿刺に伴う神経障害や,硬膜外血腫による下肢運動感覚障害などの重篤な合併症が発生しうることから,適応を拒否する患者に対しては,患者の意向を尊重して,別の鎮痛法で対応することとなりえます.従って,開腹手術において,全身麻酔に併用する硬膜外麻酔のインフォームド・コンセントは,デフォルトが適応となるリバタリアン・パターナリズムとして捉えられ,適応外はオプトアウトの選択というインフォームド・コンセントのスタイルが標準的であろうと考えます.
以上のようなプロセスが,特にリスクの高くない手術患者への麻酔科の標準的な対応であると思いますが,ときに,麻酔科にとってたいへん困難な麻酔管理依頼が行われることがあります.気道確保が困難と予想される小児の口腔内腫瘍例や気管狭窄例,さらには重度の心機能障害を持った患者の生検術とか消化管内視鏡検査や,がん末期患者の除痛のための姑息手術などが該当します.典型的な経験例を挙げると,口腔内に発症した悪性ラブドイド腫瘍の乳児に対して,小児科で化学療法が施行されたが,腫瘍は縮小せずに巨大化して,窒息しそうな状態に陥り,小児科から依頼された耳鼻科より気管切開術のための全身麻酔が麻酔科に申し込まれました(図1).急追,麻酔科にて術前診察を行うと,口腔内腫瘍は巨大化して,口腔からの気道確保は不可能な状態でした.麻酔導入時に危機的な呼吸困難に陥る可能性も高いと判断しましたが,家族への説明状況を麻酔科から小児科,耳鼻科にと問い合わせると,小児科はすでに家族には「耳鼻科で気管切開術をこれからしていただくようにお願いしました.」と説明したということです.耳鼻科も「ご家族に全身麻酔下で気管切開の説明をしました.」との回答でした.麻酔科として,急追,家族を呼んで麻酔のリスクを説明して,たいへん危険性が高いことを説明しましたが,腫瘍の化学療法を行なっている小児科や,気管切開を依頼された耳鼻科には,麻酔導入に関わる高度なリスクに対する認識がどの程度にあったのかは大きな疑問でもあり,それぞれが家族に自分たちの関わる領域についてのインフォームド・コンセントを済ましている状況でした.治療を行う前提として生命維持に必要な気管切開であり,そのための危険な全身麻酔管理について,関係各科の見解を確認せずに,もし最悪の状況として救命できなかった場合,小児科医や耳鼻科医は,家族に提示したそれぞれの医療計画は適正であったが,「麻酔の導入で失敗してしまいました」というようなことを家族に伝えかねない懸念が浮かび上がる状況でした.鎮静下に気管支ファイバースコープを用いた経鼻挿管を実施して,全身麻酔導入を行い,気管切開術が無事に実施されて,幸い事なきを得ました.本来,関わる診療科である小児科,耳鼻科,麻酔科の合同でカンファレンスを開いて,リスクを共有の上で,ご家族には合同で統一的な見解としてインフォームドコンセントを行うべき状況であり,小児科,耳鼻科には,今後の適切な対応としてそのようにお願いしました.麻酔科医は,関わる診療科に対しても,「麻酔」という絶対的かつ副次的に求められる医療行為のリスクについて,その部分だけを切り取られたようなフレームにて生命維持に関わる「損失」を麻酔科単独で背負うことは,うまくいかなかった場合には大きなトラブルの原因となり得ることから,関わる診療科にチームとして共通の方針の理解のもとで,医療を提供して,その説明をご家族にすることに対する理解をいただく必要があるのではと感じました.その後も,小児科からの全身麻酔管理依頼では,高度な気道狭窄をもつ患児の気管切開術であるかと,高度な肺高血圧症を持つ肝臓悪性神経芽細胞腫の幼児の肝生検であるとか,知的障害のある心室中隔欠損症でアイゼンメンジャー化(肺高血圧症に伴う心内右左シャント)した状態にある学童の胃内視鏡検査の全身麻酔管理の依頼など,処置や検査よりも,そのための全身麻酔管理そのものに高度なリスクを伴う症例の依頼があり,依頼元の診療科と事前のコンセンサス無しで,それぞれの診療科が単独で個々にバラバラとインフォームド・コンセントを行うことに関わる発生しうる「損失」について常に懸念の気持ちを持って,各診療科にはチーム医療としての対処を促す姿勢を持って対応してきました.
• Tatsuno A, Katoh H, Taniguchi F, Shibasaki M, Kato Y, Sawa T, Nakajima Y. Awake fiberoptic nasal intubation in an infant with amalignant rhabdoid tumor occupying the oral cavity: a case report. Journal of Anesthesiology & Clinical Science. 2015. https://www.hoajonline.com/jacs/2049-9752/4/3
がん患者への姑息的な手術に対する全身麻酔の依頼も,麻酔科医にとっては、患者・家族へのインフォームドコンセントでは悩ましいところです.肺癌が脊椎に転移して,強い痛みや運動制限が発生し,その状態を少しでも緩和する目的で転移性脊椎腫瘍手術が計画されて,全身麻酔管理の依頼がされる.原疾患である肺癌の状況では,呼吸機能も高度に低下していることもあり,また気道出血のリスクなども伴い,症状緩和かつ延命の目的で手術を行ったところが,一気に命を縮める可能性も伴うことも起こり得ます.転移性脊椎腫瘍手術については,術前の生命予後評価として「徳橋スコア」なるものも整形外科領域では発表されており,我々,麻酔科医も生命予後等について整形外科医とのコミュニケーションも含めて理解した上で,術前麻酔科外来にて,麻酔のリスクや術後の合併症の可能性などについて,患者・家族に説明して,理解の上で麻酔管理に同意を頂く必要があると考えていました.転移性脊椎腫瘍手術の関わる麻酔管理症例が複数例経験したこともあって,術前予後評価も含めたものを論文化して,日本麻酔科学会の準機関誌である「麻酔」に投稿したところ,「麻酔科の管理と関係がない」ということでリジェクトとなってしまいました.査読者,あるいは編集者たるこの麻酔科医は,どういう認識で,術前の麻酔診療に関わってきたのかとたいへん落胆の思いでした(幸い,「臨床麻酔」という別の雑誌に症例報告と総説を掲載いただいた.).
• 長田純子, 冨江有香, 権哲, 平田学, 佐和貞治. 転移性脊椎腫瘍手術について徳橋スコアによる術前予後評価. 臨床麻酔 34: 49-53, 2010.
• 佐和貞治, 長田純子, 権哲. 転移性脊椎腫瘍患者に対する術前予後評価. 臨床麻酔 33:1607-1614, 2009.
当時の本邦における麻酔科の未熟な術前対応のレベルを考えると,「麻酔」の編集委員が「麻酔管理と関係ない」と判断するような状況も仕方がなかったかもしれません.欧米では1990年代に始まった麻酔科術前外来等の仕組みは,日本でも約10年以上遅れて次第に普及して,最近10年位では当たり前になった感があります.予後が短いと予想されるがん患者の緩和目的等の姑息手術に対して,麻酔の関わるリスクを強調しすぎると,危険を冒さない(リスクを背負わない)という「差し控え」につながり,目的の緩和が果たせないこととなります.でも実際に,姑息手術の実施によって合併症が起こってしまい,命があっという間に終わってしまうような状況が想定される場合,患者・家族への事前のインフォームド・コンセントは重要となり、かつどこまで手術を行うことに「ナッジ」するのか,行わないことに「ナッジ」するのか,リバタリアン・パターナリズムのデフォルト設定が,医療の提供者側にも判断に困ることもあり,対応に悩むこともあります.
別の例として麻酔科医が関わる患者の術前の医療健康行動を考えます。術前に喫煙をしている患者に対しては,周術期管理における喫煙による様々な不利益を説明し,手術前の禁煙で得られるメリットを強調して,禁煙を促します.日本麻酔科学会が作成した添付のポスター等では,喫煙継続による損失の回避を促し,禁煙へ導く行動変容を促しています(図2).このポスターは,日本麻酔科学会の周術期禁煙推進ワーキング・グループが監修して作成が行われてきました.下図の左側の最新版では,喫煙による周術期の不利益を示すだけでなく,手術を契機に禁煙外来受診等を勧めて,保険診療で禁煙補助内服薬であるバレニクリンや,ニコチンパッチ,ニコチンガムなどの処方を受けられる情報提供を組み合わせることで,喫煙患者を禁煙へ誘導しています.ポスター作成とともに,行動経済学的な視点でその効果を評価できれば,なお一層,良かっただろうなと今更に思いました.
以上,行動経済学的な視点で,麻酔科医が関わる「麻酔」という業務を見つめ直してみました.生命倫理などが関わりやすい集中治療や緩和医療の現場で働く麻酔科医にとっては,「医療現場の行動経済学」で示された行動経済学的なアプローチを理解することが大変有益であると感じました.麻酔科医が関わる「麻酔診療」においても,色々な状況で行動経済学的な視点を持って診療を考えることが,より良い医療や患者との関係構築に役立つことであろうと改めて感じ,今回の平井先生の特別講演を通じて,この領域の学問が麻酔科学の中でも発展していくことを望んでいます.
2023年8月
第69回関西支部学術集会会長
佐和貞治(京都府立医科大学附属病院長)